1917年に政権を奪取したボリシェヴィキは、ロシア社会の抜本的な変革に着手する:
「我々は新しい世界を創造する
何者でも無かった者たちが、全てになる!」
(『インターナショナル』の露語歌詞)
その「新しい世界」には、「新しい人間」が必要であった。あらゆる面で発達し、共産主義的理想に忠実で、知的かつ創造的であり、巨大な国家機構の小さいながらも重要な歯車の1つであることを理解している人間である。
そうした理想的ソ連人は、教育と学習とプロパガンダによって作られた。一方、極めて独創的な手法も検討された。
ソ連の「超人類」計画に関しては こちらで
「我々は新しい世界を創造する
何者でも無かった者たちが、全てになる!」
(『インターナショナル』の露語歌詞)
その「新しい世界」には、「新しい人間」が必要であった。あらゆる面で発達し、共産主義的理想に忠実で、知的かつ創造的であり、巨大な国家機構の小さいながらも重要な歯車の1つであることを理解している人間である。
そうした理想的ソ連人は、教育と学習とプロパガンダによって作られた。一方、極めて独創的な手法も検討された。
ソ連の「超人類」計画に関しては こちらで
Russia Beyond 日本語版
ソ連の「超人類」計画
一部の学者は、ソ連社会の中で最も優秀な者だけで出生を維持するべきと政府に提唱していた。その優秀な子孫はやがて、「現代の知識を会得できない」同胞を淘汰するであろう、といったのである。
ロシアのスポーツ界を代表するイケメン7人
才能豊かなだけでなく、荒々しい魅力を放つアスリートたちが、あなたの心にジャストミーーート!
1️⃣ ニキータ・カツァラポフ、アイスダンス
最も有名なロシア人フィギュアスケーターの1人。1991年モスクワ生まれ。ダンスのパートナーにして、今では妻のヴィクトリヤ・シニツィナとのペアで、2022年のオリンピックや世界選手権、欧州選手権、ロシア選手権でメダルを獲得している。
2️⃣ イリヤ・イワニュク、走り高跳び
1993年、スモレンスク州生まれ。走り高跳びのロシアチャンピオン(2020年、2022年)で、2018年の欧州選手権および2019年の世界選手権で銅メダル。個人記録は、2.37㍍。
3️⃣ ヴラジスラフ・グリニョフ、水泳
1996年モスクワ生まれ。自由形の選手で、2019の世界選手権で3つのメダルを獲得したほか、多くの国際大会で入賞を果たしている。
4️⃣ ミハイル・ヴェコヴィッシェフ、水泳
こちらも水泳選手。1998年カルーガ州生まれ。2020年オリンピックで銀メダル。サメのタトゥーがトレードマークの選手だ。
5️⃣ ニコライ・ゴルドービン、アイスホッケー
モスクワのHCスパルタクに所属するフォワードで、29歳。カナダとフィンランドでもプレーし、NHLのクラブでも4シーズンを過ごした後、ロシアに戻った。現在、HCスパルタクの最高年俸選手である。
6️⃣ アントン・バビコフ、バイアスロン
1991年、ウファ生まれ。2017の世界選手権の男子リレーで金メダル、欧州選手権でも4つの金メダルを獲得している。また読書家としても知られ、若手アスリートにも熱心に読書を薦めている。
7️⃣ イワン・ブーキン、アイスダンス
1993年モスクワ生まれ。アレクサンドラ・ステパノワとのペアで活躍するフィギュアスケーター。ペアは欧州選手権で2度の銀メダル(2019年、2022年)を獲得し、ロシア選手権では3度のチャンピオンに輝いた。ブーキンは人気のTVアイスショー『氷河期』にも出演している。
才能豊かなだけでなく、荒々しい魅力を放つアスリートたちが、あなたの心にジャストミーーート!
1️⃣ ニキータ・カツァラポフ、アイスダンス
最も有名なロシア人フィギュアスケーターの1人。1991年モスクワ生まれ。ダンスのパートナーにして、今では妻のヴィクトリヤ・シニツィナとのペアで、2022年のオリンピックや世界選手権、欧州選手権、ロシア選手権でメダルを獲得している。
2️⃣ イリヤ・イワニュク、走り高跳び
1993年、スモレンスク州生まれ。走り高跳びのロシアチャンピオン(2020年、2022年)で、2018年の欧州選手権および2019年の世界選手権で銅メダル。個人記録は、2.37㍍。
3️⃣ ヴラジスラフ・グリニョフ、水泳
1996年モスクワ生まれ。自由形の選手で、2019の世界選手権で3つのメダルを獲得したほか、多くの国際大会で入賞を果たしている。
4️⃣ ミハイル・ヴェコヴィッシェフ、水泳
こちらも水泳選手。1998年カルーガ州生まれ。2020年オリンピックで銀メダル。サメのタトゥーがトレードマークの選手だ。
5️⃣ ニコライ・ゴルドービン、アイスホッケー
モスクワのHCスパルタクに所属するフォワードで、29歳。カナダとフィンランドでもプレーし、NHLのクラブでも4シーズンを過ごした後、ロシアに戻った。現在、HCスパルタクの最高年俸選手である。
6️⃣ アントン・バビコフ、バイアスロン
1991年、ウファ生まれ。2017の世界選手権の男子リレーで金メダル、欧州選手権でも4つの金メダルを獲得している。また読書家としても知られ、若手アスリートにも熱心に読書を薦めている。
7️⃣ イワン・ブーキン、アイスダンス
1993年モスクワ生まれ。アレクサンドラ・ステパノワとのペアで活躍するフィギュアスケーター。ペアは欧州選手権で2度の銀メダル(2019年、2022年)を獲得し、ロシア選手権では3度のチャンピオンに輝いた。ブーキンは人気のTVアイスショー『氷河期』にも出演している。
ナポレオンはロシア軍に勤務する可能性があった?――答えは「はい」!
1788年、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)は、まだ無名の少尉で、フランス南東部のヴァランス市守備隊に勤務していた。勤務は、彼に満足のいくものではなかった。金欠に苦しみ、出世の見通しもぜんぜんなかった。
しかし突然、すべてを一変させるチャンスが訪れた。当時オスマン帝国と戦っていたロシアが、外国人将校の採用を始めたのだ。
ロシア軍の俸給は悪くなかった。戦場で手柄を立て出世階段を駆け上がることも、あり得ない話ではなかった。
だから、1788年初めにロシアのイワン・ザボロフスキー将軍が志願兵募集に、イタリアのリヴォル市にやって来たとき、ボナパルトはすぐさま彼のもとへ向かった。
ところが、難点が一つあった。外国人は、ロシア軍に採用される際に、階級を下げられたのだ。野心的なコルシカ人は、すぐさま大尉になれると当てにしていた。
ボナパルトは、ザボロフスキーとの個別の面談にこぎつけたが、何の成果も得られなかった。ロシアの将軍は、なぜ、何者とも知れぬ一介の少尉に特例を設けなければならないのか、さっぱり納得できなかった。
怒ったボナパルトは、捨て台詞を残して部屋を出ていった。「私はプロイセン軍に勤務する。あそこの国王は、私を大尉にしてくれるだろうさ!」
しかし、彼はプロイセンには行かなかった。まもなく大フランス革命が始まり、ナポレオンを権力の頂点に押し上げることになる。
1788年、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)は、まだ無名の少尉で、フランス南東部のヴァランス市守備隊に勤務していた。勤務は、彼に満足のいくものではなかった。金欠に苦しみ、出世の見通しもぜんぜんなかった。
しかし突然、すべてを一変させるチャンスが訪れた。当時オスマン帝国と戦っていたロシアが、外国人将校の採用を始めたのだ。
ロシア軍の俸給は悪くなかった。戦場で手柄を立て出世階段を駆け上がることも、あり得ない話ではなかった。
だから、1788年初めにロシアのイワン・ザボロフスキー将軍が志願兵募集に、イタリアのリヴォル市にやって来たとき、ボナパルトはすぐさま彼のもとへ向かった。
ところが、難点が一つあった。外国人は、ロシア軍に採用される際に、階級を下げられたのだ。野心的なコルシカ人は、すぐさま大尉になれると当てにしていた。
ボナパルトは、ザボロフスキーとの個別の面談にこぎつけたが、何の成果も得られなかった。ロシアの将軍は、なぜ、何者とも知れぬ一介の少尉に特例を設けなければならないのか、さっぱり納得できなかった。
怒ったボナパルトは、捨て台詞を残して部屋を出ていった。「私はプロイセン軍に勤務する。あそこの国王は、私を大尉にしてくれるだろうさ!」
しかし、彼はプロイセンには行かなかった。まもなく大フランス革命が始まり、ナポレオンを権力の頂点に押し上げることになる。
お正月だけじゃない:1月はロシアで最も「休日」の多い月だろう。
一つの休日が“スムーズ”に別の休日につながることが何度かある。
1⃣月7⃣日:クリスマス
1917年の革命以前には、ロシアのクリスマスは、ユリウス暦に従って12月25日に祝われていた。1918年以来、この国はグレゴリオ暦に切り替わり、この祝日は13日先に「移った」。
1⃣月6⃣日~1⃣8⃣日:スヴャトキ(クリスマス週間)
「スヴャトキ」(クリスマス週間)は、 降誕祭と「主の洗礼」を記念する「神現祭」との間の12日間だ。それはクリスマス・イブ(ソチェリニク)に始まり、神現祭に終わる。
「スヴャトキ」は、異教では冬と春の間、キリスト教では2つの重要な宗教的祝祭の間の時期と位置づけられていた。民衆の考えでは、そのような「はざまの時間」には「コリャドヴァチ」してもよかった。つまり、お互いに訪問し合い、儀礼の歌をうたい、占いをすることさえできた。
1⃣月1⃣4⃣日:旧正月(文字通りに訳すと「古い新しい年」)
非公式にだが、この祝日は、新年の祝賀の終わりを告げる。多くの家ではクリスマスツリーや装飾が片付けられ、街ではクリスマスのイルミネーションが撤去される。
革命後の1918年以来、ロシアは、ユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替わり、暦は13日進んだ。ユリウス暦の1月1日は、グレゴリオ暦の1月14日になる。
1⃣月1⃣9⃣日:「神現祭」または「主の洗礼」
キリスト教のこの祝日は、ヨルダン川でのイエスの洗礼を記念している。このとき、イエスは初めて救世主として世界に姿を現し、聖三位一体もまた世に現れたとされる。
この日、ロシア全土で湖水や川の氷に穴が開けられ、正教会の司祭が水を成聖して聖水とする。「神現祭」の聖水は、魂と体を癒す聖なるものとされる。
1⃣月2⃣5⃣日:タチアナの日
1755年のこの日、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは、モスクワ大学創設の法令に署名した。当時用いられていたユリウス暦によれば、これは1月12日で、殉教者「ローマの聖タチアナ」を記念する日だ。タチアナは、ローマで生まれ、226年1月12日に殉教したと伝えられる。
2005年から、1月25日は「ロシア学生の日」と定められている。
一つの休日が“スムーズ”に別の休日につながることが何度かある。
1⃣月7⃣日:クリスマス
1917年の革命以前には、ロシアのクリスマスは、ユリウス暦に従って12月25日に祝われていた。1918年以来、この国はグレゴリオ暦に切り替わり、この祝日は13日先に「移った」。
1⃣月6⃣日~1⃣8⃣日:スヴャトキ(クリスマス週間)
「スヴャトキ」(クリスマス週間)は、 降誕祭と「主の洗礼」を記念する「神現祭」との間の12日間だ。それはクリスマス・イブ(ソチェリニク)に始まり、神現祭に終わる。
「スヴャトキ」は、異教では冬と春の間、キリスト教では2つの重要な宗教的祝祭の間の時期と位置づけられていた。民衆の考えでは、そのような「はざまの時間」には「コリャドヴァチ」してもよかった。つまり、お互いに訪問し合い、儀礼の歌をうたい、占いをすることさえできた。
1⃣月1⃣4⃣日:旧正月(文字通りに訳すと「古い新しい年」)
非公式にだが、この祝日は、新年の祝賀の終わりを告げる。多くの家ではクリスマスツリーや装飾が片付けられ、街ではクリスマスのイルミネーションが撤去される。
革命後の1918年以来、ロシアは、ユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替わり、暦は13日進んだ。ユリウス暦の1月1日は、グレゴリオ暦の1月14日になる。
1⃣月1⃣9⃣日:「神現祭」または「主の洗礼」
キリスト教のこの祝日は、ヨルダン川でのイエスの洗礼を記念している。このとき、イエスは初めて救世主として世界に姿を現し、聖三位一体もまた世に現れたとされる。
この日、ロシア全土で湖水や川の氷に穴が開けられ、正教会の司祭が水を成聖して聖水とする。「神現祭」の聖水は、魂と体を癒す聖なるものとされる。
1⃣月2⃣5⃣日:タチアナの日
1755年のこの日、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは、モスクワ大学創設の法令に署名した。当時用いられていたユリウス暦によれば、これは1月12日で、殉教者「ローマの聖タチアナ」を記念する日だ。タチアナは、ローマで生まれ、226年1月12日に殉教したと伝えられる。
2005年から、1月25日は「ロシア学生の日」と定められている。
狼に関するロシアの諺7️⃣選 🐺
ロシアは、狼の生息数で世界1位だ。森のこの「灰色の住人」について、民衆の間に非常に多くの慣用句や格言が生まれたのは当然だろう。
1️⃣🐺😱🌳🌲🌳🚫
「狼が恐けりゃ、森へは行くな」
«Волков бояться – в лес не ходить»
(Volkov boyat'sya – v les ne khodit')
とても有名な諺だ。その意味は、困難を恐れていては何もうまくいかない、危険を冒して勇敢な行為に出る必要がある。同じ意味の諺に、「危険を冒さぬ者はシャンパンを飲めない」。日本の「虎穴に入らずんば虎子を得ず」に当たる。
2️⃣💼🟰❌🐺🌳 ⬅️🏃🏽
「仕事は狼ではないから森に逃げたりしない«Работа не волк, в лес не убежит»
(Rabota ne volk, v les ne ubezhit)
難しい仕事からは逃れられないので、焦る必要はない。日本の「急いては事を仕損じる」にやや近い。すべての“先延ばし屋”のモットーと言えよう。
この慣用句は、ソ連の人気喜劇映画『作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険』(1965年)が公開された後、真のミームになった。この映画では、
乱暴を働き労役を科せられること
になった男が、難題に怯えている
3️⃣🐺🍖👀🌳
「どんなに飼いならしても狼は森だけを見る」
«Как волка ни корми, все в лес глядит»
(Kak volka ni kormi, vse v les glyadit)
すでにお分かりのように、多くの諺は森に関連している。この諺は、古い習慣や癖を変えるのは難しく、
人を再教育することはほぼ
不可能だ、という意味。
4️⃣🐺🫶🏼🐏
「狼は満腹で羊も無事」
«И волки сыты, и овцы целы»
(I volki syty, i ovtsy tsely)
この諺は、物事が非常にうまく運び、双方の利益になるときに使う。
ちなみに、次のような諺もある。「一発で二羽の兎を仕留める」«Убить двух зайцев одним выстрелом»(Ubit' dvukh zaytsev odnim vystrelom)。これは、日本語なら「一石二鳥」だろう。
5️⃣🐺🐏🔬👀
「狼は羊の皮を被って隠れることはできない」
«Волк и в овечьей шкуре не укроется»
(Volk i v ovech'yey shkure ne ukroyetsya)
この諺は、人の本性はどんなに隠しても必ず顕れてしまうという意味だ。「羊の皮を被った狼」とも言う。この比喩は、外見はまるで天使だが、内面はかなりヤバい人を表すのによく使われる。こういう人々については、「静かな淵には悪魔が住む」«В тихом омуте черти водятся»(V tikhom omute cherti vodyatsya)と言ってもいい。日本語なら、「人は見かけによらない」だろうか。
6️⃣🐺🦵🦵🦶🏿🦶🏿🍗🍕
「脚が狼を養う」
«Волка ноги кормят»
(Volka nogi kormyat)
狼は、長距離を移動することができ、しかもほとんど疲れない。この諺は、結果を出したければ行動することが肝要だという比喩的表現。お金を稼ぎたいなら、座して夢想するのではなく、働かなければならない。
7️⃣🐺❤️🐺
「狼は狼を食わない」
«Волк волка не съест»
(Volka nogi kormyat)
古代ローマにも似た諺がある。
「Comix cornici nunquam confodit oculum」
これは、ロシア語の次の諺に相当する。「カラスはカラスの目を突っつかない」«Ворон ворону глаз не выклюет»(Voron voronu glaz ne vyklyuyet)
その意味は、同様の価値観をもつ同類同士は、お互いを害しない。
ロシアは、狼の生息数で世界1位だ。森のこの「灰色の住人」について、民衆の間に非常に多くの慣用句や格言が生まれたのは当然だろう。
1️⃣🐺😱🌳🌲🌳🚫
「狼が恐けりゃ、森へは行くな」
«Волков бояться – в лес не ходить»
(Volkov boyat'sya – v les ne khodit')
とても有名な諺だ。その意味は、困難を恐れていては何もうまくいかない、危険を冒して勇敢な行為に出る必要がある。同じ意味の諺に、「危険を冒さぬ者はシャンパンを飲めない」。日本の「虎穴に入らずんば虎子を得ず」に当たる。
2️⃣💼🟰❌🐺🌳 ⬅️🏃🏽
「仕事は狼ではないから森に逃げたりしない«Работа не волк, в лес не убежит»
(Rabota ne volk, v les ne ubezhit)
難しい仕事からは逃れられないので、焦る必要はない。日本の「急いては事を仕損じる」にやや近い。すべての“先延ばし屋”のモットーと言えよう。
この慣用句は、ソ連の人気喜劇映画『作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険』(1965年)が公開された後、真のミームになった。この映画では、
乱暴を働き労役を科せられること
になった男が、難題に怯えている
3️⃣🐺🍖👀🌳
「どんなに飼いならしても狼は森だけを見る」
«Как волка ни корми, все в лес глядит»
(Kak volka ni kormi, vse v les glyadit)
すでにお分かりのように、多くの諺は森に関連している。この諺は、古い習慣や癖を変えるのは難しく、
人を再教育することはほぼ
不可能だ、という意味。
4️⃣🐺🫶🏼🐏
「狼は満腹で羊も無事」
«И волки сыты, и овцы целы»
(I volki syty, i ovtsy tsely)
この諺は、物事が非常にうまく運び、双方の利益になるときに使う。
ちなみに、次のような諺もある。「一発で二羽の兎を仕留める」«Убить двух зайцев одним выстрелом»(Ubit' dvukh zaytsev odnim vystrelom)。これは、日本語なら「一石二鳥」だろう。
5️⃣🐺🐏🔬👀
「狼は羊の皮を被って隠れることはできない」
«Волк и в овечьей шкуре не укроется»
(Volk i v ovech'yey shkure ne ukroyetsya)
この諺は、人の本性はどんなに隠しても必ず顕れてしまうという意味だ。「羊の皮を被った狼」とも言う。この比喩は、外見はまるで天使だが、内面はかなりヤバい人を表すのによく使われる。こういう人々については、「静かな淵には悪魔が住む」«В тихом омуте черти водятся»(V tikhom omute cherti vodyatsya)と言ってもいい。日本語なら、「人は見かけによらない」だろうか。
6️⃣🐺🦵🦵🦶🏿🦶🏿🍗🍕
「脚が狼を養う」
«Волка ноги кормят»
(Volka nogi kormyat)
狼は、長距離を移動することができ、しかもほとんど疲れない。この諺は、結果を出したければ行動することが肝要だという比喩的表現。お金を稼ぎたいなら、座して夢想するのではなく、働かなければならない。
7️⃣🐺❤️🐺
「狼は狼を食わない」
«Волк волка не съест»
(Volka nogi kormyat)
古代ローマにも似た諺がある。
「Comix cornici nunquam confodit oculum」
これは、ロシア語の次の諺に相当する。「カラスはカラスの目を突っつかない」«Ворон ворону глаз не выклюет»(Voron voronu glaz ne vyklyuyet)
その意味は、同様の価値観をもつ同類同士は、お互いを害しない。
#ロシア語のアルファベット 33文字全部覚えよう
1️⃣3️⃣ Лл
正式にはこの文字は「エリ」と呼ばれているが、その形は、ラテン語の「L」ではなく、ギリシャ語のラムダ「Λ」に似ている。
実際、筆記体ではまさにそのように書かれる。
印刷の書体では、ロシア語の文字「П」のように見えるが、少し曲がっている。
サンクトペテルブルクの印刷会社がこの書体を導入したのは19世紀のことで、今でも標準となっている。
1️⃣3️⃣ Лл
正式にはこの文字は「エリ」と呼ばれているが、その形は、ラテン語の「L」ではなく、ギリシャ語のラムダ「Λ」に似ている。
実際、筆記体ではまさにそのように書かれる。
印刷の書体では、ロシア語の文字「П」のように見えるが、少し曲がっている。
サンクトペテルブルクの印刷会社がこの書体を導入したのは19世紀のことで、今でも標準となっている。
ソ連からの亡命者:最も有名な5️⃣人 🏃🏽🏃🏼♀️🏃🏽♂️🏃🏽🏃🏻♂️
彼らは、より良い生活を求めて故国を離れた。その多くは、もはやふるさとに戻ることはなかった。
1️⃣🏃🏽 ミハイル・バリシニコフ(1948年~)
海外に亡命する前、バリシニコフは、サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)のキーロフ劇場(当時、マリインスキー劇場はそう呼ばれていた)のソリストだったが、彼にはさらなる夢があった。彼は、祖国を去ることを決意した。
1974年、トロント公演中に、彼は政治亡命を申請した。アメリカン・バレエ・シアターでのバリシニコフの初公演では、彼のカーテンコールは、20回以上におよんだ。彼は1978年に、有名な振付師ジョージ・バランシンが率いるニューヨーク・シティ・バレエ団に移籍して、そこで踊り、さらに、1977年には映画『愛と喝采の日々』に出演して、オスカーにノミネートされた。複数の劇場で、芸術監督を務めた。写真家でもある。
2️⃣🏃🏼♀️ スヴェトラーナ・アリルーエワ(1926~2011年)
彼女は、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンの娘だ。1967年にインドへ赴き、インド人の内縁の夫、ブラジェーシュ・スィンの遺灰を、ガンジス川に流すことになっていた。デリーでアリルーエワは、アメリカ大使館に行き、亡命を求めた。彼女は、娘と息子をソ連に残していた。
米国に定住した彼女は、回想録を何冊か出版し、結婚してラナ・ピータースを名乗った。1984年にアリルーエワは、モスクワを訪れたものの、2年後には米国に戻った。
3️⃣🏃🏽 ルドルフ・ヌレエフ(1938~1993年)
1961年、キーロフ劇場は、フランス公演に出発した。ダンサーの一人、ルドルフ・ヌレエフは、ソ連の秘密警察「KGB」の特別な監視下にあり、KGBは、彼を出国させたくなかったが、フランス側は、それを主張した。
パリでダンサーは、疑わしいほど自由に振舞った。「外国でのソ連国民の行動規則に違反し、一人で市内に入り、夜遅くホテルに戻った」。ソ連当局は、ヌレエフをモスクワに送還しようと企て、実際に空港に連れて行った。
しかし、ダンサーは不可能なことがらを実行した。文字通り、諜報員の包囲から飛び出した。驚いたフランス警察に対し、自分は当地に残りたいと告げた。
ルドルフ・ヌレエフは後に、自分のキャリアの中で最も高く、最もエキサイティングな跳躍をしたのはこの時だ、と語った。
4️⃣🏃🏽♂️ アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986年)
1983年夏、ミラノでスキャンダルが勃発した。映画『鏡』や『惑星ソラリス』などを製作した名匠は、記者会見で、ソ連には戻らないと宣言した。この少し前に、タルコフスキーは、「ゴスキノー」(ソ連閣僚会議映画国家委員会)のフィリップ・エルマシュ委員長に、イタリア出張の延長を求めていた。
タルコフスキーは、映画『ノスタルジア』の製作を終えており、それは、カンヌ国際映画祭で監督賞などを受賞した。そして彼は、さらに3年間イタリアに留まりたいと考えた。しかし、彼の要請は拒否された。そこで彼は、ラディカルな行動に出ることに決めた。
5️⃣🏃🏽 ヴィクトル・コルチノイ(1931~2016年)
チェスのソビエト選手権で、4回チャンピオンになっている。世界選手権戦の挑戦者決定戦には、計10回出場し、2回優勝している。
1974年に彼は、挑戦者決定戦でアナトリー・カルポフに敗れ、自分の負けは不当だと考えた。これを受けて、コルチノイは、海外渡航を禁じられた。禁止が解除されたのはようやく1年後のことだ。
1976年、アムステルダムでのトーナメント中に、コルチノイは、ソ連への帰国を拒否した。彼は、祖国では世界タイトルを狙えるチャンスが少なすぎると信じていた。その結果、彼は、同胞たちから批判を浴びる。78年、81年に、世界チャンピオンのカルポフと2度対戦したが、いずれも大接戦の末に敗れた。
1990年、ヴィクトル・コルチノイは剥奪されていたソ連国籍を返還されている。
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彼らは、より良い生活を求めて故国を離れた。その多くは、もはやふるさとに戻ることはなかった。
1️⃣🏃🏽 ミハイル・バリシニコフ(1948年~)
海外に亡命する前、バリシニコフは、サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)のキーロフ劇場(当時、マリインスキー劇場はそう呼ばれていた)のソリストだったが、彼にはさらなる夢があった。彼は、祖国を去ることを決意した。
1974年、トロント公演中に、彼は政治亡命を申請した。アメリカン・バレエ・シアターでのバリシニコフの初公演では、彼のカーテンコールは、20回以上におよんだ。彼は1978年に、有名な振付師ジョージ・バランシンが率いるニューヨーク・シティ・バレエ団に移籍して、そこで踊り、さらに、1977年には映画『愛と喝采の日々』に出演して、オスカーにノミネートされた。複数の劇場で、芸術監督を務めた。写真家でもある。
2️⃣🏃🏼♀️ スヴェトラーナ・アリルーエワ(1926~2011年)
彼女は、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンの娘だ。1967年にインドへ赴き、インド人の内縁の夫、ブラジェーシュ・スィンの遺灰を、ガンジス川に流すことになっていた。デリーでアリルーエワは、アメリカ大使館に行き、亡命を求めた。彼女は、娘と息子をソ連に残していた。
米国に定住した彼女は、回想録を何冊か出版し、結婚してラナ・ピータースを名乗った。1984年にアリルーエワは、モスクワを訪れたものの、2年後には米国に戻った。
3️⃣🏃🏽 ルドルフ・ヌレエフ(1938~1993年)
1961年、キーロフ劇場は、フランス公演に出発した。ダンサーの一人、ルドルフ・ヌレエフは、ソ連の秘密警察「KGB」の特別な監視下にあり、KGBは、彼を出国させたくなかったが、フランス側は、それを主張した。
パリでダンサーは、疑わしいほど自由に振舞った。「外国でのソ連国民の行動規則に違反し、一人で市内に入り、夜遅くホテルに戻った」。ソ連当局は、ヌレエフをモスクワに送還しようと企て、実際に空港に連れて行った。
しかし、ダンサーは不可能なことがらを実行した。文字通り、諜報員の包囲から飛び出した。驚いたフランス警察に対し、自分は当地に残りたいと告げた。
ルドルフ・ヌレエフは後に、自分のキャリアの中で最も高く、最もエキサイティングな跳躍をしたのはこの時だ、と語った。
4️⃣🏃🏽♂️ アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986年)
1983年夏、ミラノでスキャンダルが勃発した。映画『鏡』や『惑星ソラリス』などを製作した名匠は、記者会見で、ソ連には戻らないと宣言した。この少し前に、タルコフスキーは、「ゴスキノー」(ソ連閣僚会議映画国家委員会)のフィリップ・エルマシュ委員長に、イタリア出張の延長を求めていた。
タルコフスキーは、映画『ノスタルジア』の製作を終えており、それは、カンヌ国際映画祭で監督賞などを受賞した。そして彼は、さらに3年間イタリアに留まりたいと考えた。しかし、彼の要請は拒否された。そこで彼は、ラディカルな行動に出ることに決めた。
5️⃣🏃🏽 ヴィクトル・コルチノイ(1931~2016年)
チェスのソビエト選手権で、4回チャンピオンになっている。世界選手権戦の挑戦者決定戦には、計10回出場し、2回優勝している。
1974年に彼は、挑戦者決定戦でアナトリー・カルポフに敗れ、自分の負けは不当だと考えた。これを受けて、コルチノイは、海外渡航を禁じられた。禁止が解除されたのはようやく1年後のことだ。
1976年、アムステルダムでのトーナメント中に、コルチノイは、ソ連への帰国を拒否した。彼は、祖国では世界タイトルを狙えるチャンスが少なすぎると信じていた。その結果、彼は、同胞たちから批判を浴びる。78年、81年に、世界チャンピオンのカルポフと2度対戦したが、いずれも大接戦の末に敗れた。
1990年、ヴィクトル・コルチノイは剥奪されていたソ連国籍を返還されている。
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